むかしむかしに書いたもの(1)

ブログをまたやってみようと思う(ゆえにわれあり)。「またやめるかもしれない」と思いながら続いていく、終わりないなにかで。誰にも求められていないものをやってみるのは、リハビリになっていいのかもしれないと思うので、またやってみる。Twitterのタイムラインに「棹さすならば流される」で、このすばのキャラクターたちの「呆け顔」のように、幸せな「無常」を楽しんでいればいいのかもしれないのだけれど。とはいえ、なにもないので、むかしの文書をせっかくなので置いておこうと思います。

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はるしにゃんが刊行した同人誌『イルミナシオン』に書かせてもらった、むかしの文章です。許諾をとろうにもあまりにも遅すぎるので、許諾はとれていない、です。自分がインターネットで書く文章には、宛先なんてないどこにも届かない漂流物で基本的にあってほしい、ゴミめいていて、役に立たない趣きをもっていてほしいと思います。

はるしにゃんからの依頼は「ニコニコ動画のMADについてのフェリックス・ガタリや『動ポモ』(東浩紀動物化するポストモダン』)を絡めた文化論」でした。あと、「書けなければ、萩原雪歩(cf.『アイドルマスター』)について無限に愛を語ってほしい」と。たしか、『イルミナシオン』が刊行されたのが2012年で、依頼自体はそれよりも大分前だった記憶がある。当時は修士2年で、来る日も来る日も水銀圧入ポロシメトリーでセメント硬化体の細孔構造を測定していて、測定の合間に書いた気がします。

書いていたときのモチベーションは、いまとなっては不明なんですが、当時は東浩紀の「計算可能な物自体」という考え方にとても惹かれていて、『動物化するポストモダン』(2001年)の議論にあまり明示的ではないそのへんのアイデアを、周辺テクストに読み込んでいくという作業をしたいと思っていたような記憶があります。

でも実際のところは、めぐみんの呆け顔よろしくニコニコ動画のMADムービーに耽溺するだらしのない自分の生態をややこしくあげつらっているだけだった気も、したり。タイトルは「ポストモダンフラクタルな創作についてのノート」です。

あと、印刷所へのデータ入稿までに間に合わずにお蔵入りになった補論「「とかち」とMADのきらめく舞台/小史」もついでなので置いておきます。

 

ポストモダンフラクタルな創作についてのノート

 (はるしにゃん(編)『イルミナシオン』(2012年)pp.94-100.)

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補論:「とかち」とMADのきらめく舞台/小史

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これを書いていたときにはすでにゼロ/テンの遷移状態にあって、でも震災という「予感」はまだなにひとつなかったのがよく分かります。たしか書き終えた直後ぐらいに震災が起こったのではなかったかと。

きっと、いまMADについて書くとしたら、もっと「非人間的なもの」(というよりは端的に外部としての「事物」)の響きがでてくるのかもしれないとも思ったり、思わなかったり。

【追記】2021年11月07日:「「とかち」とMADのきらめく舞台/小史」を縦書き版(Ver.2.0)に変更しました。InDesignで版組をいじるのが楽しく感じます。