2023年2月11日

有刺の、鉄線

日曜日の

空き地に拡げられた

ブルーシートの

上で、

 

きみは死んでいた、

 

水路脇の、踏み躙られた

アサガオの、

毒のまざなし、

口元に、

引っ掻かれたような、痕

があり、

狼色の髪が、むしり

取られた、芽が

もっている、毒の緑色、

燃えた

足跡、

 

残された、黒板には無数に、白い、微

粒子の爆ぜる、痕が、

きみと出会えていた、はずの

あの、燃え残った、

場所に、

無銘の、捧げられた

星型が吊るされるまで

 

 

 

少女たちの秘密の分光学

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少女状のプリズム。秘密の分光学。

 

なんとなく詩的に始めてみた。

よく考えなくても、初めて書き上げて『アニクリ』に寄稿できたのが『リズと青い鳥』(京都アニメーション、二〇一八年)に関する文章でした。「書き上げた」と打鍵をすべらせてしまっているわけですが、かなりの部分をNag編に補完してもらっていることは「御存知!」という話です(Nag_Nayさんへの感謝は尽きない)。

いまでも個人的な感慨としてはそんなに変わっていないのですが、『リズと青い鳥』については、かなりを『失われた時を求めて』に重ねて受容しているように思う。特に、ジル・ドゥルーズが『プルーストシーニュ』で提示した「シーニュの習得」の物語に重ねていたように思う。社交界シーニュ、愛のシーニュ、感覚のシーニュ、そして芸術のシーニュに収束する。そのときに開示されるのは「本質」(「もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異」)なのだという。

なんとなく、終盤のみぞれによるオーボエの演奏とともに飛び立った青い鳥を思い浮かべてしまう、そんな感じ。

 

だいぶ前にNagさんに許可をもらっていたので、『アニクリ vol9.5 リズと青い鳥総特集号』(アニメクリティーク刊行会、二〇一八年)に載せてもらった拙文「『リズと青い鳥』の亡霊たち」を、ここに転載します。もちろん、元ネタはデリダの『マルクスの亡霊たち』です。ただし、ここでの亡霊たちとはspectresであり、スペクトルと関係がある。

本当は、『vol.9.0 監督 山田尚子総特集号』に大幅に改稿したものを寄稿することを企みつつも、a.k.a書く書く詐欺師の本領発揮でそんな原稿は消失したのでした。そのため、『アニクリ』掲載版とほとんど変わらないものになっています。

山田尚子にとっても「少女」というのはひとつの特権的な「思考のイメージ」なのでしょうし、そこが決して交差しない平行線でありながらも男性オタクも惹きつけてやまない魅惑なのだと思われる。

本稿は、『アニクリ vol.12』(2021冬号)の特集「ジャンルのリフレーミング」に書けないかと思っているものの構想に少し係わる気がしてもいて。

どうなるか。

drive.google.com

 

最近は舐達麻をよく聴いています。

 

追記:

過日のこちらのスペース(以下、リンクから動画アーカイブへ)で話されていた、京都アニメーションの「志」が、アニメーターの移籍(個人的には「離散」)にともなって(デリダ的意味でなく)散種されているのではないかという話について、私自身はけっこう真剣に受け取っていたりする。

youtu.be

どこの業界にもあるような、同業界内でのひとの行き来についてまわる伝聞の域をでないものであっても、アニメーターの場合はもともと浮動性があるようにも思うので、実際にひとの動きをともなっている限り、考察をしてみるのは下世話な話にとどまらないようには思う(ただし、語り口をどうするかは考えないといけないのでしょう)。

京都アニメーションに関しては、亡くなられた武本監督や、今回『平家物語』(サイエンスSARU、二〇二一年)から京アニを離れた山田監督がもっていた「実写フィルム的な装い」を突き詰めるタイプの演出がどこに漂流するのかという話題の先に、『ラブライブ!スーパースター!!』(サンライズ、二〇二一年)が挙げられていたことに個人的には納得みがありました。

ラブライブ!スーパースター!!』の画面からはそこはかとなく「足(脚)み」を感じていて、山田尚子監督の代名詞的な脚芝居にフォーカスされるローアングル(その水平性が顕著なので、「脚の地平線」と呼ぶ)が意識されているというわけではないにしても、キャラデザが京アニ出身の斎藤敦史ということもあってか、ちょっとキャラクターの「イメージの肉」がそれっぽく感じさせるのかもしれない、などと個人的に考えていたところだったので、「同じこと思っていたひとがいたー」と少しうれしくなりました。

それだけです。